このタイトルをご覧になって「ピン!」ときた方がいらっしゃったら、きっとその方はピアノを習っていた方だと思います。
ピアノの教材として、避けては通れないバッハ。
そしてご多分に漏れず、私も嫌々バッハを練習していました。
でも、ピアノを習っていた人の大半が「嫌々」弾いていた、ということを認識したのは割と最近なのです。
数年前、オペラ鑑賞の前にお友達数人とランチをしていたときのこと。話の発端は忘れましたが、ある方が「ピアノを習っていたとき、バッハ、嫌いやったー!」と言ったことに対して、私も含め、そこにいたほとんどの方が賛同したのです。その方が音大出身だったということもあり、「嫌いだ、って言っていいんだ!」と爽快感にも似た驚きを覚えたのでした。
ちょうどそのころ、音楽学者の岡田暁生さんのご著書「クラシック音楽とは何か」(書名は固い印象ですがとても楽しい音楽エッセイです)を読んでいて、その中に「バッハはお好き?」というタイトルを見つけ、その中身を読むまでもなく「あ、これは逆説的タイトルだな」と「ピン!」ときたのです。そしてその文章は、私の長年のバッハに対する思いを見事に分析してくださっているようで、溜飲が下った思いがしました。
そういった流れを経て、バッハに苦手意識を持っているのは私だけではなく、しかも仲間は多そうだ、ということがわかってきたのです。
そこで最近思うのは、バッハとの出会いがピアノ・レッスンであることは、多くの場合、かなり不幸なことなのではないか、ということ。
先日の投稿「バロック音楽とバロック建築」で触れましたが、私がバッハの素晴らしさに気が付いたのは、社会人になって何年も経ってからのことでした。ジャズやボサ・ノヴァなどクラシック以外のジャンルを多く聴いていた時期でもあったのですが、その耳に「無伴奏」はものすごく新鮮に聴こえたのです。けれど、その時の心境は単に「かっこいい!」と感嘆することだけでなく「バッハを好きになっていいのだろうか?」という、結構ねじくれたものでもありました。その原因はいうまでもなく、ピアノ・レッスンでの苦手意識。
もし、バッハとの出会いがピアノ教材としてではなく、例えばいきなり「無伴奏チェロ組曲」であったなら、もっと素直に「好き!」だと思えていたはずです。そして、その出会いはもっと早かったような気がするのです。バッハであるがゆえに、聴くことを避けていた、あるいは優先順位が低くなってしまっていた、ということですね。
そして、ピアノでバッハを嫌いになり、とうとう好きになることもない人たちが結構いるのではないか、などとも考えてしまうのです。それは「音楽鑑賞人生」上、もったいないし、不幸なこと。しかし一方で、クラシック音楽への入り口がピアノであった場合、バッハは避けては通れない訳で、これはバッハの音楽が持つ宿命なのかもしれない、と思ったりもしています。
さて、こんなことを書いている私ですが、現在は「バッハ」のもう一つの目標があります。
それはバッハの合唱曲を歌うこと。
「マタイ受難曲」。 これも「無伴奏チェロ組曲」と同時期に「発見」(メンデルスゾーンではありませんが・・)し、同じくらいの衝撃を受けた作品です。特にアルトのアリア「憐れみたまえ我が神よ」は繰り返し何度聴いたことかわかりません。
「弾くバッハ」は不幸であったけれど、「歌うバッハ」は幸福な体験であってほしいな、と思いながら、今はそのチャンスを待っているところです。