14時開演 びわ湖ホール 大ホール
沼尻マエストロと京響のマーラー・シリーズ第3弾。マーラーの「最初」と「最後」の交響曲ということで、1番の「巨人」、未完で1楽章のみの10番アダージョを聴いてきました。
昨年4番を聴いた際のブログにも書きましたが、この「巨人」はぜひ聴きたい曲目というわけではなかったのですが、マエストロの演奏をびわ湖で聴けるのはあと何回もないことを思い、聴きに行ってしまったのでした。
「第九の呪い」・・第9番を書いてしまうと死んでしまう、というベートーヴェンから始まったジンクスゆえ、9曲目は番号を振らずに「大地の歌」とし、次の第9番は完成させたものの10番を書きかけたところで命尽き、結局「完成」したのは第9番までだったマーラー。
その1楽章のみの第10番「アダージョ」。公演前日ホールの公式Twitterに載せられたマエストロの動画による紹介では、この作品は「黄泉の世界」。これが今回の鑑賞の大きなヒントになりました。9番で死期を悟り、10番では死後の世界を描いている。
そう思って聴くと、冒頭のヴィオラのパートソロからして、暗闇のなかを不安にさいなまれながら行き場所を求め迷っているように聴こえます。調性が不明瞭であるため、足元が地面から浮いた状態で彷徨っているような、不安定な世界を垣間見ているような心持ちになりました。この音楽は時代的にも「現代音楽」の始まりなのでしょうか。
果たして、終楽章まで完成していれば、その着地点はどのようなものであったのか?マーラーの残したスケッチによる補筆版もいくつかあるようなので、また聴いてみたいと思っています。
後半第1番「巨人」
この作品、曲想がコロコロと変わるので気持ちがついていけないし、管楽器がベルを上に上げて吹く、ホルンが立ちあがるなど、表現が大袈裟で見ていてなんだか恥ずかしくなったりもして、実は少々苦手でありました。
しかし、先月「指揮者セミナー」を見学したこともあり、マーラーの複雑な音楽を実に鮮やかに描き分けるマエストロの動きを見ることで、次々と現れる異なった音楽がどのような曲想であるのかを理解しながら聴くことができました。それに やはり京響は上手い。冒頭の弱音からコーダの最強音まで、マーラーならではのダイナミックレンジを堪能。終盤になってくると、感動と終わってしまうのが悲しいのとで涙ぐんでしまいました。
・・とは言っても、ではこの作品が「とても好き」に変わったかというと実はそうでもないのです(笑)。いろいろな要素が詰まりすぎていて、何に共感していいのかわからない、といった感じ。でもそれはそれでいいのかな、と思っています。
ところで、予習としてこの作品について調べていたところ、この交響曲の各楽章には、完成に至る過程でマーラーによりタイトルがつけられていたことを知りました。第2稿でのことで、のちに削除されていますが、以下となっています。
第1楽章「春、そして終わることなく」
第2楽章「順風に帆を上げて」(当初の第2楽章「花の章」はその後削除)
第3楽章「座礁、カロ風の葬送行進曲」
第4楽章「地獄から天国へ」
これ、残しておいて欲しかったな、と思います。10番の「黄泉の世界」同様、鑑賞のヒントになりました。
それからもうひとつ、新たに知ったこと。
私が最初にこの「巨人」を聴いた際に特に耳に残ったのは、3楽章の「葬送行進曲」なのですが、これは童謡「ジャック・フレール」を短調にしたもの。「ジャック・フレール」とは「ドレミードー、ドレミードー、ミファソー、」という誰もが知っているメロディで、私は子どもの頃この曲の時計形のオルゴールを持っていました。
しかし、シンフォニーに急に現れる童謡のメロディ、それが短調になっていることや、Esクラリネットの甲高い音色で奏でられる対旋律がなんとも奇妙で、「違和感」として印象に残ったのです。しかしこれも解説を読んで腑におちたのですが、これは銅版画家ジャック・カロの描いた「猟師の死体を担いだ獣たちが踊りながら墓地へ進む絵」が元になっているとのこと。その絵を見たことはありませんが、ブラックでグロテスクなイメージに、なるほど!と思った次第です。
やっぱり、こうして知ったうえで聴くのと、ただ何となく聴くのとでは楽しみ方が大きく違う、と今回もまた痛感したのでした。
◇座席
3階席中央寄り上手側2列目。大編成のマーラーなので3階席。
通路脇を取りましたが、前席の体格の良い方の頭でヴィオラがほぼ全滅。
なので呪文をかけました。
「眠れ~眠れ~こうべを垂れよ~」
約10分後に効果があらわれ、視界は一気に開けたのでした。