2021年6月25日(金)大山平一郎指揮/大阪フィルハーモニー交響楽団第549回定期演奏会 ショスタコーヴィチ交響曲第1番

19時開演 フェスティバルホール

先月のシャルル・デュトワ指揮で予定されていた定期は昨年に続き中止。
今回は指揮者の沖澤のどかさんの帰国、ヴァイオリニストのコリヤ・ブラッハー氏来日が叶わず、大山平一郎マエストロ、金川真弓さんの代演でプログラムの変更はなく開催されました。

コンサート通いのペースがここのところ鈍っていて、先週登壇したことを除けば、オーケストラを聴くことは4月の大フィル定期以来で、もともとのペースがペースなだけに(笑)かなり久しぶりの感がありました。

大山平一郎マエストロは、昨年関フィル定期で飯守泰次郎マエストロのこれまた代演でブルックナー4番を聴いて以来。そのとき抱いた印象でおおよその想像はしていましたが、その指揮ぶりを見ながら浮かんだのは、「謹厳実直」の四文字。真面目、丁寧、総じて遅めのテンポ。大フィルの重厚なサウンドは十分に楽しめましたが、うーん、やはり面白味や爽快感には欠ける。演奏技術のレベルに関わらず、感動したりしなかったり、その要因はなんであるのか?そんなことを考えながら聴いてしまいました。

ブラームス唯一のヴァイオリン・コンチェルト、金川真弓さんのヴァイオリン・ソロ。国際的なヴァイオリニストの演奏を聴く機会が増えてくると、その違いも楽しめるようになってきたと思っているのですが、金川さんの音色には「幅広」の印象を持ちました。例えば三浦文彰さんの音色には細い切れ味の鋭さのようなものを感じるのですが、それとは明らかに異なり、倍音が多く含まれている豊かで横幅の広さを感じる音色でした(倍音が聴き取れているわけではありません 汗)。
ソリスト・アンコールはなし。カーテンコールで何度も出入りはありましたが、アンコールはない方がいいなと私は感じていて、その通りでありました。(プログラムと無関係にバッハなどを弾かれたりするのはあまり好きではないのです)

そして、ショスタコーヴィチの「卒業制作」交響曲第1番。天才の年齢にいちいち反応するのはナンセンスであると思ってはいますが、この19歳での作品の完成度の高さには驚いてしまいます。形として出来上がっていることはもちろん、ハッとする面白さもあり、それが既に後の交響曲に抱く印象と同じ「ショスタコーヴィチらしさ」を備えている。
私のお気に入りは何といってもピアノの使い方。ピアノとは和音が鳴らせる打楽器なのだ、と認識を新たにするような用いられ方で、しかもユーモラス。ショスタコーヴィチの先鋭的なセンスもさることながら、こうしたアヴァンギャルドさは文化的下地として当時のソ連に存在していたものなのでしょうか? ともかく、一瞬え?なんだこれは!?と違和感を持ちつつも心を掴まれてしまう感じが、私にとってのショスタコーヴィチらしさなのです。

ところで、私が職業柄少々理屈っぽいのかもしれませんが、「名曲コンサート」以外の演奏会のプログラムは必ずなんらかの意図、コンセプトのもとに組まれていると考えます。
しかし、今回のプログラムは作曲家の国籍も時代もバラバラ、プログラミングの意図が掴みかねるものであったのですが、この日、1曲目に演奏されたのは芥川也寸志の「弦楽のための三楽章(トリプティーク)」。トリプティークとはキリスト教の三連祭壇画のことで、性格の異なる3つの楽章をこれになぞらえているそうなのですが・・果たして、今回の3作品でのプログラム自体が「トリプティーク」であって、入れ子構造のようになっていたのかもしれない?と帰宅後思いついたのでした。

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