2022年6月10日(金)下野竜也指揮/兵庫県立芸術文化センター管弦楽団第134回定期演奏会 ピアノ石井楓子

15時開演 兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール

4月定期同様、午後から休みを取って定期1日目に行ってきました。今度はオール・ショスタコーヴィチ・プログラム。

実際に生で聴いてみたかった、ショスタコーヴィチ7番「レニングラード」。
金管別動隊(バンダ)がステージ上手側に配され、見た目も圧巻のオーケストラで重厚な世界を堪能しました。

3年前NHKで放映された番組「音楽サスペンス紀行 ショスタコーヴィチ 死の街を照らしたレニングラード交響曲」(ナビゲーター玉木宏)が衝撃的で、この作品をめぐる政治的背景や上演にまつわるエピソードが非常に興味深く、これは是非いつか生で聴かなければ、と思っていました。
このプログラムは当初2年前(と仰っていたと思います)に予定されていたものが、コロナで順延されたものだったのですが、かつてソ連がナチスドイツに侵攻されていた時期の作品を(ロシアが隣国を侵攻している)今の状況で演奏していいものかどうか悩んだ、とプレトークで下野マエストロが仰っていました。

ラヴェルのボレロ同様の手法で(作曲家は否定しているそうですが)、人々の平和な語らいから始まり、軍隊を示すスネアドラムがクレッシェンドしてきてやがて集団的怒号へと変わっていくという戦争のプロセスを表す比較的わかりやすい音楽が最初と最後に置かれ、とくに終盤はそのオスティナート効果と盛大な金管の音量で、いやーやはり持って行かれました。

この作品、1楽章はハ長調、4楽章がハ短調で、ベートーヴェン「運命」の逆なのですが、そのあたりも作曲家の意図が含まれているように感じます。わかりやすい作品を強要する指導部に向けて「だったら、はい、ハ長調」とか、終楽章は「勝利」と見せかけて実は短調、とか。私の妄想ですが。

前半のピアノ協奏曲は、重厚長大な交響曲と対をなすような軽やかさと独特の諧謔性もある魅力的な作品。ピアノ独奏は当初のブルガリア人ピアニスト、プラメナ・マンゴーヴァ氏が来日できず、代演で石井楓子さんの演奏。エキゾチックでプリマドンナのようなルックス(ソプラノ中村恵理さん似?)、低音部強音の大迫力とコロコロ転がる軽妙な表現のバランスが素晴らしかった。2楽章の抒情的な美しさには心が奪われました。

◇ソリストアンコール
ショスタコーヴィチ:24のプレリュードOp.34より第10番
「ショスタコの後はショスタコしかないでしょう」の観客の気持ちに沿った選曲もGood!

◇オーケストラアンコール
プーランク(下野竜也編曲):「平和のためにお祈りください」
これ、実はこの後に行った大フィルのフレンチ・プロとのつなぎになる、私にとってはミラクルな楽曲でした。
下野マエストロがプレトークで仰っていた、その気持ちの代弁であったと思います。

◇座席
2階席最前列下手端から2席目。
対向配置だったので、下手側のコントラバスが少々切れるけれど、ほぼステージ全体が見渡せる良席。ピアニストの手元もよく見え、交響曲では金管群とバンダの間の延長線上の位置でそのステレオ効果を存分に享受。

◇その他
前述「音楽サスペンス紀行」の内容で印象深かったことを備忘として以下残します。

この作品はソ連のプロパガンダとして扱われたのと同時にアメリカでも政治利用された。
当時ナチスドイツへの対抗措置としてソ連に武器を無償供与する「レンドリース法」が施行されたが(つい先月、再びウクライナに対しても可決成立)、この無償供与に反対する世論を封じ、国民のソ連への親近感を醸成するべく国務省主導の下、大々的にアメリカ初演が行われた。

250余頁のスコアは延べ30mの長さのマイクロフィルムに収められ、ヨーロッパ上空を回避してテヘラン⇒カイロ⇒ブラジル⇒マイアミを経てワシントンの国務省に送られる。

アメリカ初演の指揮者として、クーセヴィツキー、ストコフスキー、ロジンスキーの3人が名乗りをあげたが、白羽の矢が立ったのはトスカニーニ。ナチスドイツと同盟を結んだ祖国イタリアを捨てアメリカに移ってきたこの指揮者が話題性として最適であった。

音楽は人の心を動かす力を持っている。強権な指導者(スターリン、ルーズヴェルト)はそのことをよく分かっていた。

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