2020年11月6日(金)ワレリー・ゲルギエフ指揮/ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

19時開演 フェスティバルホール

おそらく、コロナ禍における今年の日本クラシック音楽界最大のできごとになるであろうウィーン・フィルの来日公演。このちょうど1週間前に来日が確定し、演奏者も曲目も座席も変更なし、当初プログラム通りで演奏会が行われました。

チケットの売り出しが確か5月頃だったと思いますが、指揮者も曲目も魅力的だったので「ダメ元」で買っていました。中止になった場合も保険の満期返戻金のように楽しみがあるし、との考えもありました。
正直、1ヶ月前までは「まぁ来ないでしょう」と思っていました。しかし「10月20日に決定する」→その後「10月末には決定する」となった時点で、これは本気で大詰めの交渉をしているのだ、と察し、来ることを確信したのでした。

政府間の交渉で特例として来日が叶ったわけですが、呼ぶ方も来る方も、諦めないその熱意にまず感動しました。チャーター機での来日、新幹線車両借り切り、ホテルフロア借り切りなど、ウィーンフィルの収益性の高さと100人以上のまとまった規模の団体であることの条件が揃って可能になったことだと思いますが、考え尽くしやり尽してコンサートを開催してくださった全ての方々に敬意と感謝の気持ちでいっぱいです。

フェスティバルホールは、私の座席から見える1階席はほぼ満席。オケ奏者の方々がステージに現れたところで拍手が沸き起こったのですが、このホールが満席でこんなに大きな拍手の音を聞いたのはいつ振りだろう?と考えたら、昨年のウィーンフィル来日公演の時以来でした。

奏者の方々は、ステージの席に着くまで全員黒色のマスクを装着。ちなみに男性奏者の服装はタキシードではなくディレクターズスーツ。ニューイヤーコンサートのようでウィーンフィルらしさを感じました。

さて、今回もいつも通り、読んだり聴いたりの予習を行いました。(聴く方はもっぱらベルリンフィル・デジタルコンサートホールのアーカイブでしたが。笑)
そもそも、このコンサートにぜひ行きたい!と思った理由のひとつは、プロコフィエフのピアノコンチェルトがマツーエフの演奏でしかもゲルギエフの指揮で聴ける、ということでした。ロシア人(ソ連?←これについて触れると長くなるので、「ロシア」とします)作曲家の作品をロシア人演奏家で聴ける。ウィーンフィルはちょっとイメージ違うかもしれないけれど(笑)、これは大変貴重な機会だと思ったわけです。

そして、プロコフィエフのピアノコンチェルトにハマったのは、BPhアーカイブでユジャ・ワンの演奏を視聴したことがきっかけであったのですが、ジャズのようなモダンな和声進行と強いリズム。人間の持つ能力について考えさせられるレベルの超絶技巧。2番は、大都会(ニューヨーク)の夜の闇を連想するような曲調で、アメリカ亡命後の作品かと思いきや、なんとまだ音楽院在学中の22歳の時の作品。天才恐るべし、です。

マツーエフはネットで調べたプロフィールによると、身長198㎝(!)。そしてバス歌手を思わせるような胸板の厚い立派な体格。ステージに現れた時点で期待値が跳ね上がりました。
冒頭の弱音は、意外とナマなマットな感じ(残響が少ない)だと思ったのですが、その直後の低音の凄まじさ!! ピアノとはこんなに大きな音が出る楽器だったのかと驚くばかりの超重量級の音量。いや、これは凄い。大きな体躯がこれほど活かされる演奏はないでしょう。快哉!

超絶技巧も、その体格ゆえ曲芸的には見えず、それ自体が目的になりがちな演奏とは一線を画し、技巧の必然性を感じさせる説得力あるものでした。
双眼鏡で手元をのぞき込んだり、ホールの響き(振動?)を感じたりと、それはもう忙しく演奏を満喫。いや、本当にこの演奏の場にいることができてよかった!
それと相対するように、アンコールのシベリウスのエチュードは真珠の粒がころころ転がるような愛らしい演奏で、ワークアウト後のクールダウンのように気持ちが素直に落ち着くものでした。

20分間の休憩を挟んで、チャイコフスキー「悲愴」。
クラシック音楽の聴きはじめにまずハマるのは、往々にしてチャイコフスキーではないかと思うのですが、私はこの作品、中学生の時にハマり、甘美な長調の第2主題をクラリネットで吹いて悦に入ったりしていました(B♭管音程が正解なのか知りませんが)。思えばその当時から既にクラオタですね(笑)

しかし、中学生の時は中学生なりの感性で聴いていたのだな、と今回痛感(それも決して間違いではないと思いますが)。
チャイコフスキーを追い越すくらいの年齢になってみて、作曲者が自らの人生を俯瞰しているような、この作品の持つメッセージをたぶん正確に受け取れるようになったのではないかと今回しみじみ思いました。

そして、かなり予習した成果でもありますが(笑)、チャイコフスキーの作曲の巧みさも改めて感じました。先ほど第2主題の甘やかさ、2楽章の舞曲風、3楽章の勇壮なマーチなど、全体的に見れば明るい曲調が多く、悲壮感一辺倒ではない。これは聴き手を飽きさせないという効果もあります。が、少し詳しく見ていくと、音楽的な仕掛けが随所に施してある。第2主題は、長調であるけれど常に下降音型。舞曲は5/4拍子で「踊れない」、ダンスのお相手はメフィストテーレス? そして3楽章の栄光の行進ーーゲルギエフの凄さを感じたのはまさにここでした。3楽章と4楽章をアタッカで間髪入れずつなげたのです。「栄光」の全否定! ハッと胸を突かれる思いがしました。ドイツ語の「Nicht!」という叫びが聞こえてくるようでした(第九の逆ですね)。悲痛な第1主題の早すぎる再出現。その美しくも胸を締め付けるような旋律、そしてウィーンフィルの比類のない美しい弦の響き。涙が滲みました。

思い入れが多いので、どんどん長くなります・・(笑)
かつてクラリネットで吹いていた第2主題。今回の演奏で、まず1回目に現れたときは、窓辺で沈みゆく太陽、残照を眺めているようだと感じました。そして、2回目に現れたときは、明らかに音色が変えてあり(楽譜の指示かどうかわかりませんが)、かなり平たい響きで演奏されていたのです。その響きを聴き、あぁこれは夕日を眺めていたことを思い出しているのだな、と、昔日を思った窓辺もすでに過去ものになったのか、と感じました。この表現力の凄さ。指揮者の力量とそれに応えるオーケストラの技量があってこそのものです。

この作品は、チャイコフスキーの辞世の句、自分に向けたレクイエム、あるいはある意味自虐的な自伝なのだと、実演に接して思いを新たにしました。
これを理解するには、中学2年生には、まだちょっと早かったかなー。
年を重ねることは悪くない、それはむしろ豊かなことだと思わせてもらえる演奏でした。

蛇足になりますが、「見どころ」のひとつとしていた、第一楽章のppppppの部分は楽譜指定のファゴットではなく、バス・クラリネットでした。BPhアーカイブで見た2公演もバス・クラリネット。作曲者はファゴットの弱音の「吹きにくさ」をあえて指示しているとの見解もありますが、やはり音質重視ということなのでしょうか。

ところで、これだけ書き連ねておいて・・なのですが、実はこの演奏会、残念ながら100%の満足で帰途に着いたわけではありませんでした。
それは、1曲目の「ロココ」のチェロが聴くに堪えなかったからです。
日本人チェリストの最重鎮であり、今回の来日公演実現の最大の功労者のお一人であろうことは重々承知しているのですが、あの演奏はひどい。終盤では、本来どのような旋律であるのかわからなくなるくらい音程がずれていて、苦笑しようにもチケット代の高さが頭をよぎり、笑いたくても笑えない心境でした。過去の業績はともかく、現在ではウィーンフィルと共演できるレベルとは思えず、ゲルギエフはじめ後ろのオーケストラ団員の方々はこれをどう思って演奏されていたのでしょうか。

1曲目のこの持っていき場のない怒りの心情がその後の演奏を聴く際にも被さってきてしまい、ウィーンフィルの美しい響きを心ゆくまで堪能することができなかった。のみならず、帰宅後、床に就いてからも演奏の脳内リプレイとも相俟って、まったく眠ることができませんでした。
同じように思った同行者の方がいたら、喋って発散できたかもしれませんが。

◇アンコール
・チェロ ソリストアンコール:シューベルト「ロザムンデ」よりマーチ
・ピアノ ソリストアンコール:シベリウス エチュードOp.76-2
・オーケストラ アンコール:チャイコフスキー「眠れる森の美女」よりパノラマ
それぞれにアンコールがある豪華版でした。
終演は21時35分。
鳴りやまぬ拍手に応え、ゲルギエフの「一般参賀」あり。

◇座席
2階最前列下手側。大フィル定期とほぼ同じ席(笑)

◇その他
プログラムと共に、オーストリア観光のパンフレットが入っていました。
ウィーンフィルは「大使」なのですね。
お誘いにお応えし、またウィーンに行って、楽友協会ホールや国立歌劇場で音楽を楽しみたい・・実は来年か再来年、会社の勤続休暇で計画しているのですが・・叶いますように!

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