2021年7月31日(土)沼尻竜典オペラセレクション「カルメン」

14時開演 びわ湖ホール 大ホール

「メリー・ウィドゥ」の次は「カルメン」で3週続けてのオペラ鑑賞。

今年のびわ湖ホールのオペラセレクションは、新国立劇場提携公演を兼ねたものとなっていました。つまり、びわ湖ホールでのオペラ公演が例年よりひとつ減ったということです。コロナ禍により公演が次々と中止や延期になった影響やワーグナー作品にかかる製作費などの事情があってのことと思われますが、コロナ第5波が急激に拡大する中、それでも無事に行われて良かったと思っています。

読み替え演出のこのプロダクションは、前回の「メリー・ウィドゥ」に比べるとはるかに感想が書きやすくて(笑)、ひとことで「演出が中途半端だが、歌唱は素晴らしい」。

現代への読み替えであることは事前にわかっていましたし、端からそれを否定するような偏狭さは持ちたくないと思い、できるだけフラットで寛容な心構えで行ったつもりでした。が、やっぱりダメでした。

アレックス・オリエ氏の「演出ノート」によると、物語を作り直すのに役立った人物が英国人ロック歌手「エイミー・ワインハウス」であり、「私たちにとってカルメンのイメージそのもの」なのだそうです。「カルメンを、実世界で有名な、身近で、理解しやすい人物であるエイミーに見立てることで、観客はカルメンにもっと共感できるようになるからです」??

このスペイン人演出家は日本のオペラ観客層を把握していないのではないでしょうか?少なくとも私はエイミー・ワインハウスをこのときまで知りませんでしたし、このプロダクションは東京で「高校生のための鑑賞教室」としても上演されていたので、高校生向けという側面があったとしても、10年前に亡くなっているロック歌手に今の高校生が共感するのかは疑問です。

「メリー・ウィドゥ」でも感じたことですが、オペラの観客拡大を図るために「大衆化」の方に寄せていくのは的外れではないでしょうか。それよりもその作品が元から持っている「美」を追求した方がはるかに共感、感動を呼び、その世界に人を引きつけていくーー初めて触れた人も含めてーーそしてそれが芸術の持つ普遍性というものだと思うのですが、つくり手側の業界或いは欧米での考え方はまた違うのかもしれません。

とまぁ、書きだすと止まらないわけですが(笑)、今回演出の不満点は大きく2つ。

1つ目、オペラ歌手の体形を無視した衣装デザイン。
エイミー・ワインハウスをビジュアル的な面で参考にしたとのこと。病的なロック歌手の衣装をオペラ歌手に着せる。これが全然似合っていなくて歌手の方が気の毒。当然ロック歌手にも見えません。

2つ目、つくり込みが中途半端。
ドン・ホセは警官(刑事?)ということですが、字幕では「伍長」のまま。読み替えるなら徹底しないと。観客の知識、想像力に頼るというのでは、読み替えの意味がないのでは?また、ロック・コンサート会場の設えがあるものの、その見立てをなにか新たな役割として使っているかといるかというとそうでもなく、ドラムセットやキーボードなどはただの置物。

しかし、歌唱は粒ぞろいで素晴らしいものでした。

谷口睦美さんの肉感的なカルメン、最後まで透明感を失わない歌唱で堪能させてくれた清水徹太郎さんのドン・ホセ、佇まいも歌唱も可憐な砂川涼子さんのミカエラ。
ドン・ホセとミカエラの二重唱の場面は特に美しく、舞台の造りこみの少なさが幸いして意識を歌唱に集中することができ、これは心に沁みました。(演奏会形式でもよかったのでは?)

残念だったのは、エスカミーリョ「闘牛士の歌」。舞台奥で歌われたため、あまり響いてこなかった。「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」もそうですが、こういう大見映を切る場面では舞台の前の方で歌って欲しいものです。

幕切れは意外と普通。一昨年の同じオリエ氏演出の「トゥーランドット」では、ラストでトゥーランドット姫が自刃するというショッキングな幕切れだったので、今回もドン・ホセがカルメンを差した刃物で自分も刺して死ぬ、といった衝撃のラストを期待していたのですが、カルメンを差した後、監獄を暗示するパイプ足場が前面に降りてくるだけで、少々期待外れでありました。

なんだか文句ばっかり書いてしまいました(笑)

・・演出、舞台、衣装そしてもちろん音楽、歌唱・・どっぷり浸れるオペラを鑑賞したい。びわ湖リングで贅沢に慣れてしまったかもしれません。コロナ禍でもこうして鑑賞できていることに感謝しなくてはならないとは思っているのですが。

タイトルとURLをコピーしました